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親バカでいい 第7話

8、「我が子はいつまでも我が子」 バツイチの僕には、前妻と離婚した時、2歳になる息子がいました。息子とは会わないことを約束に離婚しました。が、息子には会いたい。でも会えない。僕はお袋の名前で、毎年正月にはお年玉、子どもの日と誕生日とクリスマスにはプレゼントを贈りました。 やがて息子が小学生高学年となった時、前妻からお袋の所に連絡があり、息子ももう大きくなったので、こういったプレゼントは送らないで欲しいと手紙が来ました。そして時は流れ、2011年3月、東日本大震災が起きました。 僕は地元で、「キャッチボール」という様々な職種の方たちを毎回ゲストに招いて、対象とした子どもたちに世の中には色々な仕事があり、それぞれに素敵な可能性を見い出すことが出来ることを毎月、子どもたちが集う施設で説いていました。 そんな2011年の4月。そのイベントを終えた僕が後片付けをしている時に、一人の若者が声をかけて来ました。 「あのう、ビリーさんですよね?」 「はい、ビリー諸川です」 「僕、○○です」 その若者が別れた息子だと知って、時が止まりました。音も消えました。その空間に僕ら二人しかいないといった感じでした。そしてすぐに僕は彼を強く抱き締めました。周囲の目など気にすることもなく、僕は泣きました。周りにいた子どもたちも一瞬、ビリーさんどうしたんだろ?みたいな空気となりましたが、すぐにそれが素敵なことだと理解出来た子どもたちは、再びワイワイガヤガヤと遊び出しました。 聞けば息子は、僕の動向をSNSなどで知っていて、偶然を装い会えないかと何度か僕の地元を歩いたそうです。僕も1日たりともキミのことを忘れた日はないし、その証拠に常にキミの写真を持ち歩いていることを息子に伝え、それが事実だということを示すため、実際に彼にそれらの写真を見せました。彼も嬉しそうでした。でも、どうして会いに来たのかを訊くと、今回の震災で、もしかしたら会えなくなってしまうのではないかと思い、それで会いに来たとのことでした。僕は無言でもう一度彼を抱き締めました。僕に会いたいと思わせるような育て方をしてくれた前妻に感謝した時でもありました。 ずうっと会えずにいましたが、我が子はやはりずうっと我が子なのだと実感し、愛おしくてたまらない感情に包まれました。 僕がPTA会長になって自分の子どもだけでなく、多くの子どもたちとも向き合い、保護司もしていたその根幹にはこの息子と正面から向き合ってあげることが出来なかった悔恨と懺悔の気持ちがあったことは言うまでもありません。


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